北ドイツでも、コロナがだんだん収束ムードに向かっているので、本当に久しぶりにハンブルクの日本食レストランに行きました。
収束ムードとは言っても、レストランに行く前にはコロナの陰性証明を取得し、それを提示しなければならなかったけれど。
久々に行った日本食レストランは、コロナを経てもあまり変わった様子もなく、営業していて安心しました。相変わらず店内のお客さんはほぼドイツ人で日本人は私だけのよう。
前回来た時は、寿司や天ぷらなどの本格的な日本料理を食べている時に、聴こえてくるのがドイツ語だけ、という状況に猛烈な違和感を感じたのだけど、今回は少し感覚が違うかなと思いました。
というのも私も少しドイツ語で何を話しているのか理解できるようになったからです。
前はただの音にしか聞こえなかったものが、意味を持ったものに変わって聞こえてくるってすごく不思議というか、感動的な体験です。
その日本料理屋で働いているウェイターの女の子は、見た目は日本人のようだけど、ちょっと雰囲気が違うしドイツ語もペラペラ。旦那さんが声をかけてみると、彼女の両親は日本人だけれども、ドイツで生まれて、ドイツの学校に通い、休みの日に日本語を勉強しているらしい。
それからレストランのオーナーは日本人だが、その奥さんはドイツ人で日本語ペラペラ。
その前に行った日本食材店のオーナーは日本人で、私と旦那さんに交互にドイツ語と日本語で話しかけてきました。
そうやって脳内で、日本・ドイツ・日本・ドイツとグルグルやっていると頭がおかしくなりそうになるんですが、そういうグラデーションの中にいる人たちに出会うと、嬉しい気持ちになります。それは自分と経験を共有できるからとかではなく、それぞれの生き方で生きてるんだと、感じられるからです。
普段、ドイツに暮らしていると、ドイツという国は完成されていると、感じます。それはドイツが、ということではないのかもしれませんが、ドイツという国で完結し、調和してるんです。うまく言えないけど、「ドイツ」という絵本の中に、自分だけ違う世界から来たものとして入り込んでしまったという感じです。それは日本に来た外国人が感じることかもしれません。もしくは、どこの国、とか関係なく、違う文化圏に行ったらそう思うのかもしれません。
つまり、何が言いたいかというと、日独の文化の「交流」はできても「融合」というのはできないんじゃないかと思うのです。今のところ。
それぞれに完成されて調和されたものを持っている。だから、ドイツにある本格日本食店というのは、「違和感」なのです。いや、そりゃあたりまえですよね。
それを人ところにまとめて混ぜ合わせてみようにも、水と油みたいにわかれてしまう。
それでも水と油がとなりにあるだけでも素晴らしいと感じられるかどうか。
だけどそういう境界線、というかグラデーションの部分で生きている人が、普段は出会えないけど色んな形でたくさんいるんだと思うと、なんだか勇気をもらえます。
やっぱり、風土や、食べ物、あらゆる面で、日本人は日本で、ドイツ人はドイツで、暮らした方が、そりゃ生きやすいですよね。生きやすいというか、合ってる、という感じですかね。
この辺は、外国の方が肌に合ってる、なんていう人も居そうだからなんとも言えないけど、生理的には生きやすいんじゃないかと思います。
でもそういう中でもここで生きてる人々に会うと、なんだか尊敬というか、じわーっと心があったまるような気がしてくるのです。
でもだからといって、ドイツで暮らしている日本人と積極的にお友達になりたい、と思うわけでもありません。ご縁があったらそういうお友達もできたらいいなとは思うけれど、日本人同士、頑張りましょう、ってやってもなんか意味ないわけで、それぞれの状況でサバイバルしているんだなと、感じられるだけで十分だったりするわけです。あとは日本食情報もらえる、とか。
果たして私はこの「絵本」の世界の中でちゃんとした登場人物になれるのかどうか、まだわからないけれど、少なくとも言葉がわかってきたら、世界の意味がうっすら見えてきました。
「言葉」がもっとわかれば、また世界が全然違って見えるのかもしれないですね。まだ未知の世界。
帰り道は大渋滞。
かんかん照りで暑くなった道路が溶けて(!)一部閉鎖されたらしい。その上天気予報にはなかった土砂降りで散々。こういうところはとってもドイツ的な経験です。
こういう日は、脳内の振れ幅が大きくて、後でどっと疲れるんですよね。
さて…またドイツ的毎日をがんばるか。