Blue Bird の旅

北ドイツでの生活

ドイツ語奮闘記

インスタのストーリーズでちょこちょことドイツ語について思ってることを書きたくなって何度かアップしたんですが、ひたすら長くなって書いては消し、書いては消し、で思っていることを書き切れないので、こちらで書いてみます。

 

パートを始めて2ヶ月ほど、自分のドイツ語のレベルについて色々感じることがありました。

 

今は勉強レベルはB2で、ゲーテインスティテュートのオンラインコースが3パートに分かれていてそのうちのB2.3を勉強してます。

B1は一昨年の夏にギリギリの点数でしたが何とか受かりました。B1は永住権(というか更新不要の滞在ビザ)取得に必要だったり、働く場合の最低限のレベルなので、移住してからはひとまずB1を目標に勉強してました。

 


B1を取得して、ホッとした所で、この先の勉強どうしようかな、と一度悩みました。このままB2へと行って、どんどん知識だけ増えていっても、実践の場がないなと。つまりペーパードライバーみたいになってしまうかなと。

かと言って、ここで勉強をやめれば、これ以上の複雑な文法や表現、語彙などは積極的には頭に入って来なくなってくる。

B2は講師の方に聞くと、大学で勉強する人などが必要なレベルとのこと。今後、ドイツで大学に行く予定はないけど、一応日本では大学卒業してる訳だから、その学力レベルに見合う、つまりそのレベルの内容を理解したり、表現できたり出来るレベルまでは最低限、勉強したい!…

 


でもやっぱり勉強してるだけでも良くないと思ったので、去年の秋に仕事に応募してみる事にしました。一件目インテリア関係に応募したら不採用。2件目は自分の良く知ってるBioスーパーに応募したら、なんとスルーっと受かった。応募フォームはB1でもLebenslauf 履歴書などの書き方もあったので、それと旦那さん指導でなんとか。スーパーで働いたことは無かったので多少の不安もありましたが、ここでインスピレーションに従って動く私が出てきて、ま、やってみよと。

 


そして今年の2月から働き始めたのですが、やっぱり自分の思っていた通りだった。B1の資格はあるものの、話すのも、聴くのも、グダグダ😅本当に私B1受かってんのかね、と自分で聞きたくなる位。たまにレッスンで習った典型的な言い回しが同僚から出てきたりして、それを耳で拾って喜んだりしてますが、あとは指示を聴くのも簡単なことを言うのも必死。で、痛感。やっぱり「会話」というのは全く別の訓練が必要で、反射神経を使うスポーツみたいなもの。

頭の中で「えーと、えーと💬🤔」と考えている暇もなく次から次へと新しい状況が訪れる…。

 


なので今は「比較的単純な単語を自分のものにしてその状況に応じて変化活用させて自信持ってテンポ良く答える」と言うのが仕事における最重要課題です。このまま働いていればだんだん身につくものなのか、やっぱり特別訓練が必要だったら、会話に特化したコースとか受けてみようかな〜と思います。

 


でその厳しい現実に直面したのと同時期に、B2の3を始めたので、コースのレベルもさらにグンとアップ。これまで読解だけで、適合する内容を選択する…とかだったものがZusammemfassung要約せよ!となってきた。しかも本文のコピペじゃなくて自分で文章作りなさいとのこと。おぉ〜。内容もGefühl und Sinn 感覚と神経でSynästhesie 共感覚とは何かの解説文の要約!といったようなもの。(共感覚は複数の感覚が連動し、音を聴くと色や形などが見える、そういう五感を持っている人がいる)

 


家ではその課題に取り組んでいる最中に、

仕事では同僚の簡単な指示「いずみ、冷蔵庫の〇〇を一度〇〇して〇〇しておいて!もうやった?」と言うような〇〇の部分がわからずに適当に返事をして作業してたら間違えてた。そして「それじゃ時間がすごくかかるじゃないの、〇〇だから〇〇でこうするのよ」「でも仕方がないわ、今は人も足りないし、あなたは言葉がまだわからないから、ゆっくりわかればいいわよ」というような親切なことを言ってくれたんだけど、でもその後自分的には撃沈…あー!こんな簡単なこともわからないなんて!

 


しかも家ではこんなに難しいことを勉強していて、辞書を使えばゆっくりだけど理解できるのに!このギャップが辛い!とひと通り落ち込んだ後。

 


…でも結局それを「表現」できなければ、相手にとっては「理解してない」とみなされるし、私の知識がどの位あるかなんて、伝わらないんだな…と痛感しました。

 


なので、言語レベルに合わせて、相手の目に映る「私という人間」の人格も違って見えるだろうなぁと。今は元気いっぱいの早口の親切な同僚たちに高校生のように接せられ、可愛がられている感はある。

 


けど今年四十路の私は高校生みたいでいいんか!と思うけど、こんな赤っ恥も含め人生巻き戻って生きてるみたいで、それはそれでなかなかない経験かな…と思っています。多分言語レベルでいうと私はドイツでは高校生…か中学生…?も怪しいくらいなのではないかな…

 


もちろん、仕事選びで、日本人である事を活かせる仕事とか、これまでの経験を活かせる仕事とか、語学レベルに関わらず働ける選択肢も色々とあると思います。将来は、ドイツ人に日本語を教えたりしてみたい。

 


でも今の私は、ポーンと飛び込んでみて実感したこのグダグダドイツ語を、どげんかせんといかんと、また新しい課題を見つけて奮闘している所です。

 


なので、B2合格と、ネイティブとの会話を成立させるという目標の2本立てで、今後も頑張って行こうと思います。

 

果たして、2本立て、両立出来るのか…

 

今後もドイツ語の勉強で感じたことや面白かった事など発信していきたいと思います🎶

白アスパラガスと小岩のおばあちゃん

ドイツに来てから、ドイツでは白アスパラガスが人気だと知って、白アスパラガスを見る機会が増えて、これまでに2回、食べました。

白アスパラガスをみると、なんか不思議な感情が湧き上がってくるな〜何でだろうなと思っていたんだけど、謎が解けました。おばあちゃんの思い出です。

 

私が子供の頃、お正月には毎年小岩のおばあちゃんの家に行って、お正月のお祝いをしました。

おばあちゃんの家に行くと始まるのがおばあちゃんのお喋り。四角い炬燵を囲んで、色々な食べ物を食べながら、昼から夜まで喋り通し。だんだん時間が経ってくるとそこはおばあちゃんのオンステージ。高齢なのもあって、決まったいくつかのお気に入りのエピソードを繰り返し繰り返し話します。

戦争のこと、関東大震災のこと、父の子供の頃の話、姉の子供の頃の話。おばあちゃんは身振りや手振りを入れて、テンポ良く話すので、まるで落語のようで、話を聞いていると目の前にイメージが映像で見えてくるような、そういう話し方でした。

そのおばあちゃんのお気に入りエピソードの中のひとつに、「いずみと白アスパラガスの話」と言うのがあって、何回も何回も聴きました。

それはこうです。私が赤ちゃんの頃、おばあちゃんが瓶詰めの白アスパラガスを1本取り出して、私に差し出した。それを握って、かじりついた私は、その食感や味が嫌だったのか、アスパラを「ん、ん」と言って返して来た、という話。

もちろん、私の記憶にはないんだけど、おばあちゃんの面白い身振り手振りと声色で話すので、それを追体験しているような気持ちになり、その時の白アスパラガスの味までしてくるような。それを子供の頃から何回も何回も聞いていたので、なんとなく「私は白アスパラガスが嫌いなんだ」と思っていて、食べる機会があっても積極的に食べなかった気がします。もちろん、日本では食べる機会自体が少なかったのですが。

 

それから、数年前にドイツに来て、白アスパラガスが人気だと知ったのですが、「なんで、白アスパラガスがそんなに好きなんだろう?」と少し冷めたような気持ちでいました。多分潜在意識の中で、「白アスパラガスは美味しくない」と思っていたんだと思います。もちろん最近になるまで、そのおばあちゃんの白アスパラガスの話を思い出すことはなかったのですが、白アスパラガスを目にする機会が増えて、その話をなんとなく思い出すようになりました。

 

そしてこの間、初めて日本のドイツレストランで食べた、ドイツの白アスパラガス。身がしっかりとしていて、香りも強く、とっても美味しかった!なので、白アスパラガス、美味しいじゃん!と。自分の中にあった無意識の抵抗感が取れた気がしました。

なので、昨日、スーパーで売っている白アスパラガスを買ってもらって、自宅で茹でて食べたのですが、やっぱりアスパラガスにも色々ランクがあるらしく、レストランで食べた味を想像していた私は、柔らかくムニュッとした食感に、また、あのおばあちゃんの「いずみと白アスパラガスの話」を思い出してしまいました。ムニュっとしてて、繊維が多くて食べにくくて、味も薄い。これは“あの”アスパラガスだ!と。

そうしてまた、おばあちゃんの記憶が呼び起こされたのです。おばあちゃんが、私のことについて話すのは、そのエピソードだけだった気がするので(他にも、左利きエピソードとかあったかな)、恥ずかしいような嬉しいような気持ちになって。

子供の頃、私は家族の中で1番小さかったので(末っ子)、炬燵を囲んで話している大人達の話をなんとなく聞きつつ、おばあちゃんがとっておいてくれたカレンダーの裏のペーパークラフトを黙々と完成させるのが私のやることでした。うまく作るとおばあちゃんが喜んで、ガラスの飾り棚に飾っておいてくれたので、それも嬉しくて。得意になって作っていました。良く考えたらそれが私の創作好きの原点だったのかなと思います。

 

今回、日本に帰って、レストランで白アスパラガスを食べた少しあと、その思い出のおばあちゃんの家が更地になったと叔父から聞きました。それで、寂しいような、あったかいような気持ちになり。

そして昨日、ムニュっとした白アスパラガスを食べた時に、おばあちゃんと家族とあのお家で過ごしたお正月と、白アスパラガスと紙工作と…。沢山の楽しかった思い出が蘇って来て、嬉しくなりました。

おばあちゃんは、いつもニコニコしていて、それだけでこちらが元気をもらうような人でした。だから、私は笑顔で居ると人を元気にできると思ったので、辛い時もなるべく笑顔でいようと思うようになり、そして私自身がそれに救われて来た事が沢山ありました。おばあちゃん、ありがとう。またお話、聞かせてね。

悲しみ

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庭のクロッカスがもうすぐ咲きそうです。

近頃ニュースを見ていると、わからないなと思うことがあります。

トルコ・シリアの大地震。瓦礫の中から必死で、命を助けようとする人間の姿。

その5秒後に始まる、ロシアとウクライナの戦争。奪われる必要の無い命が、人間によって奪われている。

それは全く反対の姿です。それが何秒か毎に切り替わり、頭に入ってくる。ふと、私が見ているこれは、一体何?と。

どちらが本当の人間の姿なのか?

ただでさえ、感染症や自然災害で多くの命が奪われているのに、人間同士が命を奪い合うということが現代でも起こっている。

きっとどちらも人間なのだと思う。人間の歴史は戦争の歴史でもあるから。

そして、私、私は。

それを画面越しに見ている私って。

クラスで知り合った、シリアから来た友達に、地震があったときに、連絡しようかと思ったけど、あまりにも私は、自分が恵まれすぎていて、きっと彼らには浅はかな存在に見えるだろうと思って、何も連絡できなかった。

人間は自ら不幸になるようには生きていない、ほかの人のために自分が不幸になることはできない。かと言って、幸せであることに後ろめたさを感じながら生きていくことも、できない。

私は、私に与えられた人生を精一杯生きる。それが感謝するということなんだと思う。

早く、春が来ますように。

一区切り…結婚・移住3周年を前に

昨日は諸用でハンブルクへ。その用事を終えて、なんとなくどっと疲れを感じました。

私にとっては、自分の実現したいことがあり、そのために行動する必要があること、と自分に課してきたことが、一旦全て完了した気がします。

ドイツ語の勉強を本格的に始めたのが、旦那さんと交際を始めた2018年以降。

2019年の夏に結婚を決め、結婚してビザを取るには最低A1の合格が必要と知り、2019年の秋頃にA1合格。

その後2020年年明けからコロナ、3月から4月で運転免許取得、6月に予定していた結婚式をキャンセル、結婚できるか不明に。

8月に結婚の申請をしていた事からドイツへの渡航が可能になり、結婚。

その後結婚関連のドイツ側の手続き、ビザ、免許、日本側の結婚手続き等で2020年終了。そしてその時に、永住権を取るにはB1が必要と知る。

2021年からはコロナが続く中、環境に慣れる、家の環境の改善・リノベーションに取り組み、夏前にA2合格。

夏の結婚1周年では母をドイツに招待し、送迎。その後母の体調が悪化…

2022年は半分は母のケアで日本に。ドイツと日本を行ったり来たりの間にB1合格。その後、オリエンテーションコース。

2023年1月LIB試験…

であとはB1とLIBの結果を持って、移民局に行って申請する、という所まで来ました。

振り返ってみると色々なライフイベントもありながら、そして新しい環境に戸惑いながら、緊急事態に焦りながら、自分にとって必要なことを脇で淡々と進めて来た気がします。

これだけ色んなことがあったので、できない理由をつける事はいくらでも出来ました。なのでなんとなく自分に対して気が抜けなかった。

B1については、無くても多分良かったのですが、婚姻ビザを更新すれば良い訳だし。でもやはり、この国に長く暮らすためにはB1レベルの語学力が最低でも必要ですよ、という事なのだろうと自分なりに理解ました。

それを目標に掲げたときはどの位の努力で到達できるのかもわからなかったので、感情と理屈のせめぎ合い。

サボりたい、やりたくない、別にいいじゃんという気持ちと、自分の為なのだから、出来たら自信が持てるよ、将来役に立つよという前向きな理性の戦いでした。

そして本当に、自分に掲げたハードルを越えられた時に、私はできたんだ!という強い気持ちが生まれたと同時に、自分を少し休ませてあげようと思いました。勾配の急な山道をずっとずっと、3年間位、登り続けて来た気がするのです。

この3年間で、生きていくための土台は整った気がします。もちろん、まだまだ1人では色々なことができないし、収入もないけれど、困った時にどう対処すればいいのか、どこからを人に頼ればいいのか、どんな努力をすれば道が開けそうか、などは少しずつ見えて来ました。

なので、ここからは、自分に課した課題をやり切った私を褒め、これからはもっともっと生活を楽しんで、行動範囲や興味の範囲を広げて行きたいなと思います。

語学も、ここからは楽しみながら。B2も力試しで、どこまでできるのか。そして、やりたくないならやらなくてもいい、という緩さを持って。

移住して来た時に初めて出会った日本人の通訳の方とお話しした時に、「移住して3年位は大変でしたけど…」というようなことをおっしゃってて、確かになぁと納得。

これから先も私の人生と愛する人たちの人生が幸せであることを願って!

ルーツ

私の両親は、どちらも東京で生まれ育ち、城東エリアに縁があります。母方は途中で千葉の方に引越ししたみたいですが。

最近そのことをより意識する出来事が重なって、自分のルーツについて少し考えています。

私の両親は、結婚当時、新興住宅で人気のあった、千葉湾岸の埋立地に引っ越しました。

海の上に土地ができ、歴史も縁も何も育まれていない土地。そこで私は生まれ育ちました。なので私自身は、土地と文化のつながり、歴史、そういうものをあまり感じることなく育ったので、かえってそういうものに敏感で、憧れ、東京の入り組んだ街並みを探索するのがとても楽しいのです。家を出てからは東京に13年間住みました。そして東京以外にも、歴史、重みのある街並み、変化して行く街、そういうものを感じるのが好きなのです。

ただ、新しい土地、埋立地に住む、ということはなかなか経験がある人は限られていると思いますが(そこに住んでる人以外は)、新しいまっさらな土地の良い面もあります。何のしがらみも土地に埋め込まれるような重たい物がなく、自由に意識を巡らせて、生きていけるのです。そしてここにいる人たちは東京にルーツがある人も多いので、付き合い方はさっぱりしてる。

そこで生まれ育った私はある種の潔癖な部分も持ち合わせており、都会の歴史、便利さなどの素晴らしい面と同時に都会のドロドロとした垢の様なものを見ると、そういうものに耐えられなくなることもあります。

しかし今回、やっぱり私の家族のルーツは東京にあるんだとわかり、そのもっともっと祖先のことはもうわかりませんが。自分のルーツは東京にあるんだと、思った方が、腹にスッと落ちるというか、確かにそうだよなと、感覚的に納得できます。

もちろん、千葉の生まれ育った土地にもこの50年位で歴史が生まれ、これからもどんどん歴史が育まれて行くのだろうと…。なのでこの場所に愛着があり、“故郷だ“と感じます。

そこから、急にポーンと北ドイツに飛び出した、私。この大きな変化の先に何が待ってるの?

少なくとも、私も歴史の一部になれたらいいな、なんて思います。「あの時、おじいちゃんとおばあちゃんが出会ってね、おばあちゃんが日本からドイツに行ってね…」と。

やはり、先祖がここでこのように暮らしていたのかとか、何を考えたのか、と考えると愛おしいのです。そういう一部に私もなりたいなと…そう思います。

隅田川

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人と会う予定があって、隅田川の近くに来ました。ここは、たまに用事があって来ますが、10年前に亡くなった、父の働いていた場所なので、どうしても父に会いに来たような気持ちになってしまう。

この街を見ながら、毎日父は何を感じていたのかなと。

区役所とアサヒビールの間にスカイツリーが上手く見えるように計算されて、立っている気がしますが、そういえば、父はスカイツリーを建てるのに反対していたなぁと、あれは何でだっけかな?

墨田区役所の反対側の公園の近くに新しくミズマチという場所ができて、すみだリバーウォークというのも出来ていた。

少しずつ変わっていく街を見て、父は何ていうかな?どう見えるかな。

街を歩きながらそんなことを考えた。

そして今の私を父は見ているかな?

頑張っていると褒めてくれるかなと。あまり褒めてくれることはなかったけど、きっと父は私のことを誇らしく思ってくれるに違いないと、そう勝手に納得することにしました。

陽だまりの日々

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愛しの、ちぃちゃん。

ふと、振り返ってみると、東京で暮らしていた13年間は、なんだのかんだのとあったけれど、すごく幸せだった気がする。
仕事があり、経済的に自立し、自由があり、友達がいる。便利な都会に住んで、行きたい所には車なしですぐ行ける。近所を歩けば楽しいお店が見つかったりする。お気に入りのカフェ、雑貨屋。そういうものたち。

そういったものは、ドイツに移住したことで全部なくなった。(いや、お気に入りの場所、多少は見つかったけど。いや、これから仕事も見つけられれば、もう少し自分の人生をハンドリングできるのかな、とか)

でも東京に住んでいた頃の私は、何かが足りない、と思っていた。せわしなく、夜もうるさい道路、人混み、静けさとはかけ離れた街。満員電車、狭いスペース、汚れた空気。私は心の静寂を求めていた。それは、ドイツに、そして旦那さんとの人生にあるような気がした。

それが手に入った今は、東京の雑踏を恋しく思う。最後に住んでいた西巣鴨の小さなアパートでちぃちゃんと暮らしていた日々。陽だまりのスペースでちぃちゃんがおしゃべり。そんな何気ない瞬間など。

ちぃちゃんをドイツに連れて行きたかったけど、コロナだなんだでそれどころじゃなくて、今は母のところに仮住まい。

…要するに、ないものねだり。こっちに来たら、あっちが良くなり。今度日本に来たら、ドイツがいいとなるのか…。そりゃ何事にも一長一短あるんだから、仕方がないか。

色々経験し改めて、私の気質的には都会暮らしがあってると思う。老後は便利な都会で小回りよく暮らしたいな〜👵それとも歳とったら田舎で静かに暮らしたくなるのかな👵🍀などと色々妄想中。