Blue Bird の旅

北ドイツでの生活

防御反応

最近、怒って収集がつかなくなることが増えました。

母は、病気療養中ですが、回復基調だったものの、今度は腰痛を発症。痛みで色々出来ていたことができなくなりました。未来への不安を感じます。

それから、母の代わりにやらなければならない色々な手続きなど、全て自分の身に降り掛かり、自分が原因で起きたことではないことの対処に奔走する日々が続いて、多分精神的には限界を超えているんだと思います。

ただでさえ忙しかったドイツでの生活、高熱にうなされた年末、長い飛行機移動、からの母の病状後退、やるべきことの重圧。無責任な対応。

これを全部心に抱えたら心が壊れます。防御反応として、私は全身で怒りました。母には響いてませんでした、とにかく、静かにしてくれと。母にとってはその程度の事なんだという気持ちが怒りを増幅させました。母は病気なので、こちらの気持ちはわからないのです。

母にとってどうでもいい事なら、こちらもどうでもいい。怒り狂って吐きそうになったところで、やめました。

これまでの人生で、親に対して、家族に対して、何ら悪いことをして来たことはないと思います。むしろサポートしてきたつもり。さらに昨年は全身全霊で母の世話をし、家族のケアをし、年が明けても未だに問題が増え続けている。私の神経も擦り切れボロボロです。それを訴えても、全然わからないのですね。

はやくこの辛くて歪んだ時間が、終わってほしいです。

くう、ねる

2022年の年明けから、本当に色んなことがありました。母の病気で急遽日本に帰らなければならず、ドイツとの生活と自分の人生と、なんだかめっちゃくちゃになったような気がしました。

もちろん日本の家族も大切だけれど、距離が離れていることによって色々な難しさが生まれました。今はドイツにいて、また11月に日本に帰ります。しばらくは短いスパンでの行き来を繰り返すことになりそうです。

大変なことが色々あって、どうしてこんなことになったんだろう?と絶望する日もありましたが、この経験によって学んだこともすごくありました。

まずは人生で大切なことを理解した気がします。それは「食べること、寝ること」です。それの上に全てが成り立っている。

私の母はうつ病で、ドイツに旅行した後位から体調を崩し始め、急性期には食べられない、寝れないが続き、体重もかなり落ちました。うつ病は精神というか脳の、病気ではありますが、それが身体全体に影響することもあるという点では、命に関わる病気です。

目の前で食べれない人、寝れない人の体調管理をして本当に肌身で感じたこと。それが当たり前ではありますが「食べること、寝ること」の重要性。身体を、生命を維持するために欠かせない毎日毎日のことなんだと身に染みたのです。

もちろん、これまでも睡眠、食事は大事だよね、程度には考えていました。でも普段当たり前に出来ることができなくなったら…。それは本当に難しいことです。

 

私のこれまでの人生は、なにかと仕事やらアクティビティで忙しく、私の思考は外向きで、自分なりに健康には気を遣っていましたが、どちらかというと二の次で、自分のやりたい事に向かって身体を酷使するような生活をしていました。若かったのでなんとか乗り切れていたのもあると思います。

でも母の姿を目の前にして、そして世話をする中で、ある日、ああ、人生の基本っていうのは「食べること、寝ること」なんだ。とようやくわかったのです。

そして、食べることにおいても、「何を食べるか?」ということ。うつ病を改善するために必要となる栄養素などについても勉強しました。そして色々学ぶ上で気づいたのは、結局、全て繋がってる…。

例えば、ダイエット、美容、妊活、健康維持。結局何をどう食べるか、もちろんエクササイズも重要ですが、日々、口に何を入れてるのか?ということに行きつきます。

もちろん神経質になりすぎるのも良くありませんが…タンパク質は?食物繊維は?ビタミン類は?どのくらい食べた?と考えるようになったのです。そして日々の買い物、何を料理するかって、とても大事だよな…と

うつ病は脳内のホルモンを作る材料がタンパク質…アミノ酸なのです。そして妊活も子供が体内で育つために必要なのがタンパク質。血液の素になる。そしてダイエット、美容もしかり。要するに、食べないで痩せるのではなく、しっかり栄養のあるものを食べて痩せましょうということなんです。

母はもちろん薬による治療もしています。でもそれだけで劇的には良くならない。体重が落ちてしまっているので、強い薬にも耐えらない。かと言って自然には良くならない。とにかくうつの症状で食事が取りにくい中でもなんとか食べてもらい体力つけてもらうしかない。

つまり、薬による治療、つまり病院での治療というのは対症療法的であるし、限界があって、あとは日々の生活の中でやってくしかないことの方が多い気がします。もちろん治療も続けていくつもりですが、手術をして病気の部分を取り除いて終わりということではないので、時間がかかる。

そのため、日本にいる時はとにかく、母の3食に気を遣ってました。もう、もはや私は母の食事の管理と服薬管理のためだけに存在してました。

始めは本当に辛かったのですが、ついに臨界点に到達し、私は人生でとても大切な事に向き合っているんだな!とふと思うようになり、何を食べるか?を考えるようになりました。

 

そして、母に対しては「ひとまず、しっかり食べて、薬の力であっても寝てくれるのであれば、それでいい。」と思うようになりました。つまり「くう、ねる」です。それさえできれば、ひとまず母の命はつながるんだと。

そうして生きる事に対する条件がかなり原点に近いところまで行った時に私自身も、すごく楽になったというか幸せになりました。

私もひとまず、色々あっても、食べること、寝ることができればそれでいい。そしてそれが出来る事に感謝する。そしてそういう日々の営みというのが本当に尊いというか…本質な気がしました。

もちろん、現代社会では食べるためにお金を稼がなきゃならない。でもやっぱり健康でなければ、難しい。しかしそういう事に気づかなければある日、仕事をする意味は逆転し、はじめは楽しさ、やりがいのためだったものが行き過ぎると、仕事が最優先、仕事に追われ、仕事での評価が1番重要になり、自分の生活をないがしろにしてのめり込んでいく。

だから、ワークライフバランスとはよく言ったもんだと思うけれど、大事だと思うのはとにかくバランス。仕事は頑張りすぎない。そしてまずは「生活」に軸を置く。「働く」エネルギーの源は「生活」にあるのだから…。

私は日本ではオフィス構築の会社に勤めてました。だから「働く」「どう働くのか」という事については、色々勉強しました。そして働くことと生活は密接に関わっている。だから働く人が幸せに働ければ、世の中全体の幸せに貢献できると思っていました。

しかし私自身は結婚を期に仕事を辞め、新しい環境に順応しようともがき、更に家族の病気に向き合ったことで「生活」というところに意識が向かうようになった。

なので今は「働く」の部分だけを切り取ってこねくり回しても、実は課題の根本は変わらないのかな…と思うようになりました。もっと社会の構造全体のことに目を向ける。だんだん世の中の流れはそちらに向かっている気がします。もちろんオフィスや働き方を変えることで解決できることは沢山あります。

 

ドイツに戻って来ても、自分が変わった事に気付きました。これまではなんとか、ドイツの生活に順応しよう、社会に出なければと必死だったけれども、ドイツでも日本でも同じ、ひとまず「くう、ねる」、それができればよし。もちろんやってみたい夢はたくさんあるけれど、ひとまずはよし。そう考えると不思議と色々なことが楽しく、ありがたく感じてきて、逆に緊張せずに色んなことができるようになって来たのです。これはある種のパラダイムシフトが自分の中で起こっているのだな、と思います。

くう、ねる。できることに感謝。それを原点にすると世界が違って見えてきます。それが私が辛かった半年の中で学んだことなんだと思います。

もちろん、仕事もできない人もいる。当たり前のように食べ物を買えない人もいる。難病で苦しんでいる人もいる。その背景には色んな理由があります。…もちろん戦禍の中にいる人たちも。くう、ねるすら脅かされる人たちの辛さというのは…

日々そういうことに思いを馳せて、自分のできることを考えていくことと、自分の生活を当たり前と思わず感謝して生きたいと思います。

B1合格

B1、受かったみたいです🥹✨昨日オンラインで確認したら、ギリギリですが合格点に4科目とも到達してました…やったー!まだ合格証が届くまで、半信半疑ですが…。

今回は、ダメでもともと…と思って受けたので、まさか受かっているとは思わず、(前日旦那さん酔っ払い事件もあったので🤣)ラッキーだった感が強いのですが、そして、この黄色い問題集もLesen終わったところで力尽き、単語帳も完成せず…。ひとまず内容はどうあれ、合格は合格💮…ありがとうございます。

B1取れると、無期限滞在許可が取れるようになるらしく(その他ドイツ現地での文化コースみたいのも参加する必要があるようなのですが)、今は婚姻ビザで3年更新で、無期限なら更新の手続きをしなくていいのと、ビザが切れたら不法滞在になるとか、そういう漠然とした不安を持たなくて済むようになるのでいいなぁと。もちろん婚姻関係が継続してればビザは更新されるはずだけれど…自分が住んでる場所に、許可がないと住めないって、なんとなく心許ないですよね。

そういう理由もあって、B1の取得を大きな目標に掲げていたので、やぶれかぶれながら達成できてよかった!ドイツ語の勉強を始めてから4年なので、のんびりペースだと思うのですが、諦めなくてよかったです。

一応、目標であったB1は取れたので、これからは勉強だけではなくて仕事を探したりアクティビティをしたりと活用していけたらいいなと思います。(いずれにしてもこの2年間はコロナで、なにかとやりたくてもできなかった、というのもあります。)

そしてそのかたわら、B2、C1までは挑戦してみたいです。これは期限もないので、楽しみながら…

でもB1とB2のレベルは相当違うみたいですね…🥹B2は生半可では受からないと、記事を読みました。楽しみながら…なんて結局言えないのかもしれない。がんばる🔥まずは、B1もギリギリ合格だったわけなので、やり残している大量の問題集を終わらせようと思います📚

結婚2周年!国際結婚に、思うこと。

今日は2回目の結婚記念日です。ですが2人は一緒に居られず、別々に過ごしています。特にすることがないので、アニバーサリーデイということで、出会ってからカップルになるまでをお恥ずかしい話も含めてアップしました。

出会ってからカップルになるまで…色々な偶然が重なり、一つでも何か違えば今結婚には至っていないのかもしれないなと思うと、人生不思議です。しかし国際結婚に限らず、出会いというのは本当に色んな偶然と奇跡が重なって生まれるものだと思います。

カップルになってから結婚するまではまた、違う困難と幸運が併存するのですが、これについては、カップル編をまとめ・放出し終えた私は卵を産んだばかりの鳥(わかる人少なそう)のような状態なので、もう少し気持ちが落ち着いたらさらに書き進めてみようと思います。

 

そして今私たちはなぜ離れ離れなのか…色々ドイツでの生活を書き留めようと再開したブログですが最近はずっと日本にいて日本の日常投稿になっています。旦那さんはドイツに、私は日本にいます。

前にも少しだけ書きましたが母がうつ病で、自宅療養をしています。今年の3月から日本に帰ってきて、少しずつ回復してきていますが、まだ食事の準備や買い物など、サポートが必要な状況だからです。そしてそういう状況だとなかなか自由に出かけることもできず、まあ勉強してみたり、ちょっとお仕事をいただいたり、本を読んだり、ブログを書いてみたりという時間が増えています。

母の病気が判明したときは、作年末から年明けで、私はその時ドイツにいて、コロナの隔離が一番厳しいころでした。日本への入国者は、度重なる検査はもちろんのこと、ホテルでの6日間隔離、その後自宅にて2週間の隔離。ホテルでの待機期間は差し引かれるのだったかな。いずれにしてもかなり身体的にも心理的にも厳しい。隔離の間は外出は一歩も不可。政府から提供された弁当を3食食べて時間を過ごす…。6日間一歩も部屋から出ない軟禁状態で、自分がコロナになるかもしれないという恐怖と戦い、そしてコロナになったら、どこに連れていかれるのかもわからない…。これは気がおかしくなってしまうかもしれないなと思いました。

母の調子が悪くなっていっているのはわかりましたが、あまりにも厳しい条件なので躊躇していました。つまり、この条件の意味するところは「よっぽどのことがなければ帰ってくるな」ということなのでした。海外に出たばかりの日本人が、自国に入国を拒否されたようなこの心細さ、無理に帰ってコロナを持ち帰れば「なんで帰ってきたんだ」と非難される辛さは、外側にいる人にしかわからないのかもしれないな、と考えたりもしました。いや、何年も帰らなくっても全然平気っていう人もたくさんいるだろうけど、私は海外生活2年目だったので。

そもそも、結婚まで編でまとめようと思っていましたが、私が結婚のためにドイツに移住したのが2020年の8月。コロナが佳境で本当に先行き見えない中での移住。それから何回かなんとか帰国をすることができましたが、検査・隔離の厳しさに辟易するほどでした。そして、ここに来ての入国時ホテル隔離6日間。もう頑張る気力が0値に到達する瞬間でした。

普通の状況なら、離れているといっても飛行機とって、一日座っていれば日本につくので(もちろん飛行機のお値段については色々ありますが)、あとは便利な世の中でメール・電話・なんでも、コミュニケーションをとろうと思えばいつでもとれるのでそこまでドイツに移住することで日本の家族との距離を感じていませんでした。しかしコロナになって、移動が難しくなってから、いやこれは、私だけではなく、全世界の人がそれぞれの形で嫌というほど経験した、「会えないつらさ」それが、私の走り始めたばかりの国際結婚を難しいものにしました。コロナが始まる前は、家族や友達も、ドイツに遊びに来てくれるだろうし、私も帰れるしと、楽しい往復生活も想像していましたが、そういう描いていた楽しさは急に灰色になってしまったのです。

 

私が結婚を決めてドイツに移住することになった時、やはり一番初めに考えたのは、日本の家族に何かあったら、どう対応するべきなのか?ということ。海外で何年も暮らしている人たちは、親や家族に何かあってもすぐに帰れないという経験をしてきて、ある程度覚悟が決まっているのだと思います。ただ私にはそこまでの覚悟もない。

そして本当にすぐに訪れてしまった、私が恐れていたこと…「もしも家族が病気になったら。」しかし、今回は私も移住まもなく、仕事も見つかっておらず、子供もいないので、隔離の条件が緩くなったらすぐに飛んでこれたので、良かったのですが、まあこれで仕事があったり子供がいたりしたら、どの程度、できるのかな?と考えたりします。

そして、こんな風に家族が病気になり、帰ってくることになって、考えてしまいます、「やっぱり国際結婚なんて大変なこと、自分には無理だったんだ…」と。そもそも海外で暮らしたこともないのに、言葉もできないのに、考えなしに移住して、だからその反動が来たんだわ、と考えたりしました。

時々ドイツがもともと好きで住んでいてとか留学して、結果ドイツの方と出会って結婚とか、ドイツで仕事をして暮らしているという方もいますが、私は、移住とか、そういうことを考えていたわけではなく、本当に偶然が重なって旦那さんと出会ってしまった。その人がドイツに住んでいた、と逆の形だったので、それ自体が考えが甘かったのかな…としばらく後悔の日々。

さらに、移住して終わりではなく、新しい環境になじみ何か始めて行くにも時間と労力を必要とします。少しずつ少しずつ、積み上げていかなければならない。ドイツ語、車の運転の練習、食事に慣れる、家の環境改善などなど、スタートダッシュをしているところに母の病気で緊急帰国。それで一切のドイツでのことがストップしてしまい、それについても焦りを感じて、ここから戻ってまた色々再開するのも大変だなあ~。もうすべて投げ出して日本に帰ってきたい。だって快適だもの。私の家族にいつだって会えるもの。と弱気になる始末。

 

しかし、やっぱり何度考えても、私が旦那さんに出会ったことはかけがえのない出来事。彼のような人は世界中のどこを探しても他に居ないと思うし、素敵な人に出会えて本当に嬉しい。なので、私がどんなにドイツでの生活で弱気になっても、旦那さんと人生を共にしていくと決めた決断は、間違いではないと思いなおすのです。

でも旦那さんにも何度も言っています。「あなたと一緒にいるために相当の努力をしています!」と。恩着せがましい…笑 でもこれは、自分が望む結果を得るためにしなければならなかったこと…いや、日本の家族と離れ離れになんてなりたくなかった。でも彼と生きていくには現状そうするしかない、とか。日本で頑張っていた仕事も本当は辞めたくなかった、とか日本でこういう仕事をしたかったとか。色々色々。でもやっぱりこの決断は何のためかと考えると、彼と生きていくため、というところに戻るのです。

つまり、すごく試され強くなっているというか、あなたはこんなに試練があっても、この道を選ぶのですか?

今のところ、イエス。今のところ 笑

そして自分の決断に対して責任を持たないといけないと思います。こうするって、決めたのだから、周りの人に理解してもらったり、助けてもらったり。自分で自分の人生を決めるというのはそういうことなんだと思ったりします。

そして、国際結婚をしたカップルの離婚率も高いと聞きます。うん、それはわかる。本当に相手が好きではなかったら、頑張れないことも多いと思う。いや、好きというか、信頼関係というのか、単純ではないんだと思いますが、それは日本人同士の結婚でも同じことかもしれないのですが。

 

しかし、今回母の件で帰ってきて、色々な対応ができたことによって、それなりの自信もつきました。医療機関とのコミュニケーション、地域のネットワークなど、知ることができて、家族にとっていい形を見つけていけるといいなと考えています。

それから、住む場所については、ドイツ一択ではなく、旦那さんも日本が大好きなので日本に住むという選択も将来あっていいかなと、思います。旦那さんが日本を好きで日本語も頑張っているので、私たちはそういう選択肢を持てるのがいいなと思います。

 

さて、色々ぐらぐらした半年でしたが、結婚2周年のこの日に、新たな気持ちでまた自分の人生を彼と歩いていこうと思ったのでした。

 

 

 

旅路6 2018年 誕生日パーティー

それから冬が近づき、世は師走。私も年末に向けて忙しく仕事をしていた頃でした。

そんな時会社にDMが届き、メッセフランクフルトのアンビエンテAmbienteが翌年2018年2月にフランクフルトで開催されることを知りました。私のインテリア熱が高まっていた頃だったので、海外展示会、行ってみたいなぁといつも憧れがありました。デンマークの一人旅もなんとか成功したことだし、この展示会にもなんとか一人で行けないかな?と悶々と考えていたところでした。

その他方、彼が11月に日本に来ていた時、「今度2月に50歳の誕生日に、大きなパーティーをするので、ぜひ来てね。」(ドイツでは歳の区切りに大きめのパーティーをするのが慣習)と社交辞令半分で言ってくれていて、外国の誕生日パーティーってどんな感じなんだろう?🤔と興味があった私は、大学時代のバンドの元メンバーに声をかけ、「一緒に行かない?」と声をかけたところ、あるカップルが「行きたいです!」とのことだったので、彼には「じゃあ3人で行きますね〜」と言ってありました。しかし直前になって、カップルの奥さんの妊娠が判明!じゃあこれは旅行は厳しいよね…ということになり、どうしようと。ひとりで行くのもなぁ。

そこでひらめき、まずフランクフルトでアンビエンテを見学!その後フランクフルトから北ドイツへ移動して、数日滞在し、彼の誕生日会に出席して、帰る。それなら、彼にもわざわざ日本から来てもらって…という心理的負担もないし、私も自分のやってみたかったことを実現できるしいいじゃん✨💡

またひらめいてしまった私は早速、そのことを彼に伝えました。そうしたら、彼はフランクフルトからリューベックまでの電車のチケットの手配を手伝ってくれて、よかったら部屋もあるので自宅に泊まってと言われました。……🤔これは突然ひとりで彼の自宅に泊まるのはどうなのかなと思ったけれど、ホテルより安心だし、何より彼の誕生日会に行くわけだから、お言葉に甘えさせてもらおう!思い、と今思えば大胆な行動にでたような気がしますが、その時はまぁいっかという感じでした。

 

そして年が明けて、ついにアンビエンテへ!一度ひとり旅の経験があると、前回ほどガチガチにはならず、少し余裕がありました。アンビエンテの会場はとにかく広く、2日間あちこち見ましたがまだまだ見終わらず。これもまた別途まとめようかな。その後もフランクフルトの建築ミュージアムに行ったり美術館に行ったり、通信ミュージアムに行ったり、フランクフルトの街を探索。今思えば真冬の2月で、雪もチラついている中、徒歩でぐるぐる街中を歩いていたんですね。よく大丈夫でしたね。多分旅のアドレナリンが出ていて、寒さとか関係なかったんだと思います。よく考えたら私以外に歩いている人少なかった気がします。

そして、ついにフランクフルト駅からハンブルクまでICEで、そこから乗り換えてリューベックまでローカル電車の旅!これが飛行機よりもなんか怖い。飛行機は乗ってしまえばただ座ってるだけで着きますが、電車は乗り換えもあって、正しいホームや時間のものに乗らないと、とんでもない方向に行く可能性があり、到着するまでヒヤヒヤ。ついには電車の中でGoogleマップで今自分がどこにいるのか確認し出す私。そしてハンブルクで乗り換えに成功!

到着したリューベックでは、降りたホームに、また彼がバラを持って待っていた!(ドイツは改札がないのでホームまで入れる)コペンハーゲンでの安心感再び、いつも待ってくれている彼、すごく嬉しかった。

その後リューベックハンブルクを観光し、色々と約10年前の記憶が蘇りました。大学生の時、ここにきて演奏ツアーをやったんだなぁ、あれは夢ではなかったんだ、この場所覚えてるもん。それはそれは、不思議な感覚でした。初めて来たような感覚と、あー前から知っている感覚と両方あって。

その後、ドイツへの滞在最終日、彼の誕生日パーティーバルト海沿いのアットホームなレストランで、30人?40人の人が集まりました。家族、仲間、生徒たちなど、みんな温かい人たちばかり。そうして音楽の先生なので、生徒たちからの演奏のプレゼント。そして自然に始まるセッションとダンス、歌…こんなに自由なパーティーに参加したのは初めて。夕方から始まって、とにかく終わらない、終わらない。(もちろん私は当時ドイツ語全然わかりません。)

…え?これいつ終わるの?と思い始めた時には夜中の2時でした。あれ、私明日の朝、飛行機乗るんだな?🤩✈️

そしておのおの、ホストに挨拶して、車だとかタクシーとか近くに取ったホテルだとか、にゆるゆると散っていく…あの、日本の「よーぉっパン(一本締め)」の文化からすると、自由だ…自由すぎる…

でもそのパーティーにでて、彼の人柄や周りの人々を感じることができ、彼は周りの人にとても愛され、それは彼が素晴らしい人だからなんだなと感じるようになりました。そして私の好きな音楽が常に流れているような、こんな場所にいる彼はとても素敵だと。

それからタクシーで彼の家に着いたのが夜中の3時。それからまだシャンパンを2人で開けようと言うのです🍾ええい、ここまできたらもう同じだ!とシャンパンで乾杯。

酔っ払っい、誕生日会で夢のような楽しい時間を過ごしお互いフワーとなった2人はついにキス💋🎇

😳😳😳😳😳😳

そこで我に返った私は

「すすすすすすみません、明日飛行機があるので寝ます!」と恥ずかしくなって部屋に逃げ帰り、翌朝起きると彼が朝ベーカリーに行って買ってきたハート型のクッキーが朝食のテーブルに置かれていました。これは…?

とにかく考えている暇もない、空港に行かなきゃならないんだから!彼が用意してくれたタクシーで空港まで1時間。その間なんとなく彼と手を繋いでいました。それから空港のセキュリティチェックに入る前にもう一度キス💋

きゃーーー😳

そのまま、飛行機に乗りました。そして日本に帰ってメールを開くと、彼からのアイラブユーメール(激変)が届いていたのです。お互いの気持ちがついにはっきりしたからでしょう…

そして、日本でいう告白のようなものはなかったのですが(あとで知ったのは文化的にも告白というのはないみたいです)色々な偶然やインスピレーションが重なり、私たちはカップルになったのでした。そこから、彼がふたたび春に、日本に来られるまで、なんとかSkypeで毎日会話をし続けて、その芽生えた愛を育てて行ったのです…💖

ここまでがカップルになるまで編。文字で書き起こして振り返ってみると、私の人生はいつも見切り発車のギリギリ滑り込み。そしてよい風が来るとフワッと乗ってしまう所があります(鳥好きだけに)。ここから結婚まではまた結婚まで編としてまとめようと思います。

旅路5 2017年 秋、お腹が痛い。

コペンハーゲンへの1人旅?が無事に終わり、日常の生活に戻りました。

コペンハーゲンでの色々な経験が印象的だった私は、インテリアの勉強をしたい!と思い、インテリアコーディネーターの資格を取ることにしました。とにかく仕事をしながらだったので、実務経験が積めなかったのが残念なのですが。

 

その後、秋が深まった11月、また彼が交換留学の仕事で日本に来るので、その時会いましょう、と連絡が来ました。デンマーク旅をやり遂げて満足していた私は、その余韻に浸っており、そしてその時バラを持って彼が現れたことは私にとって特別な思い出になっていました。そうして、また会えるなら会いたいなと。

それから、これまでは平日の夜、都内で食事するだけだったのですが、なんとなく曖昧。でも休日に出かけると、また意味が違うかもな、と思い、自分も空いていた日曜日に、これまた賭けで「日曜日が空いていますが神社にいきませんか?」と。そうしたら「行きたいです」とのお返事。

それで深大寺に行き、その後バスで吉祥寺に行って、私の幼な馴染みがアメリカ人の彼と付き合っていたので、国際交流の一環…🇯🇵🇺🇸🇩🇪というつもりで4人で居酒屋に行きました。今思い返せばあの4人で居酒屋に行くなんて、すごく奇跡的。そんなこんなでさらに距離が縮まった休日。でもやはりなんだかわからないまま。でも楽しかったしまぁいいか!と。

その時彼は1週間ほど日本に滞在していたので、また会おうと連絡をくれて、平日の夜どこかのライブに行くのでそれに行きましょうとのこと。うんー、なんか…色々誘ってくれるのは嬉しいけど、どういうつもりかよくわからないし行きたくない。ということで「ごめんなさい、仕事が忙しいので今日は行けません!」とメールをしたところ、シーンと。そして翌朝、メールがきて「お腹の調子が悪くなった…」と。

えー!😳

外国でお腹の調子が悪くなったらさぞかし不安だろうと…今思えば学校の仕事で来てるのだから問題があれば学校がなんとかしてくれるはずなのだけど、その時の私は心配になって、仕事が終わったあと、彼の滞在している赤坂のホテルまで正露丸とか色々なお腹の薬を持っていきました。それでカウンターに行って、「こちらに○○さん(彼の名前)が滞在してると思うのですが、私が来たと伝えてもらえますか」というと、何分かあとにホテルの部屋からロビーに降りてきた彼。あれっ意外と元気そうだな…

しかし持ってきた色々な薬を差し出すと、びっくりしていました。それから「ありがとう、せっかく来てくれたのでお茶でも行きませんか」と言われお茶に行き、そして軽く晩御飯も食べ(なんだ、結構元気じゃん…)、さらに、メガネを新調したいというのでなぜか一緒にメガネ屋に行き、似合うやつを選んで、その後に本屋に行き、彼は日本語の本を見たり音楽の本を見たり…あれ、なんかとっても自然…。ていうかお腹は…。彼はその時新調したメガネをえらく気に入りその後5年間使ってます。

そうして、さらに距離がぐっと縮まったものの、彼はその時の滞在を終え、またドイツへ帰ってしまったのでした🇩🇪

はてさてこの2人は一体いつまでモジモジしているのか?!

旅路4 2017年 不思議な花火と北欧への旅

前回までの話で、ふと、私に会いたいと言ってくれる人がこの人だけだ…と気づいた私。

なんとなく気になる気持ちはあるんだけど、まさか、ありえないという微妙な気持ち。

そんな時に彼が夏休みで日本に来るので、会いましょう、という連絡がまた来ました。何回か食事にも行っていたので、うむー、困った。もう外国人を接待できる楽しいアイデアがない。かと言って、高級料亭とか寿司屋とかで接待できる財力も経験もない…。と考えていたところ、そうだ、夏と言えば、花火!と思いついて、ちょうど来日している時に篠崎で花火大会があったので、「一緒にいきませんか?」と誘いました。なかなか、花火を見れることは少ないかな〜とか外国人には面白いかなぁとか考えて。

それがいざ行ってみると、大変な人混みではあったのですが、花火が素晴らしくて。豆粒のような人々が河原に集まって、みんな明るい夜空を見上げています。私も、うっとりと見惚れてしまったのですが、ふと、頭の中で、「あれ、私、このドイツの方と一緒に花火見てるって一体どういう状況?」「花火って家族とか恋人とか親しい人とみるもんだよね…(私にとっては)」「でもそんなに親しい訳じゃないんだよな」と自分でその状況を招いておきながら、冷静になる自分もいて、それはそれは不思議な気持ちになった夜だったのでした。

 

夏が終わり、秋が近づいて、33歳になった私も、なんとなくダラダラと悩んでいた自分の人生に区切りをつけ、人生初の一人旅に出よう!と決意しました。婚活、仕事、家族の悩み…あーもう、ひとまず色々どうでもいい!!これからは自分のやりたいことやる!!ということで、デンマークへの一人旅を計画しました。

なぜデンマークかというと、インテリアが好きだからです。北欧デザインが好きで、自分の好きなものが生み出される国や環境ってどういう所なんだろう、肌身で感じてみたい。どうせ行くなら友達とペチャクチャおしゃべりで終わるんじゃなくて、自分の生きたいデザインミュージアムや、カフェ、お店など、行けるだけ行く!と決めました。

フライトチケットだけ取って、あとはホテルはブッキングドットコムで…と意気揚々と予約したものの、その後本来小心者の私は何度も何度も、ひとりで海外旅行したこともないのに、北欧に飛び立つなんて!と思い、ガクガクぶるぶる。旅先の綿密なスケジュールをノートに書き出す始末。決断を後悔もしましたが、ひとり旅なんで、行こうよともやめようよ、とも誰にも何にも言われません。なので自分で課題を設定して自分で苦しんでいる状況。滑稽ですが、その時の私はそうでした。自分のために何かするのって、大変なんだなぁ〜と。

そんな時にふと彼のことを思い出し、そういえば北ドイツってデンマークに近かったよなぁ〜と思い、メールのやり取りの中で「今度デンマークに行ってみようと思うんですが、ついでに北ドイツにも立ち寄れたらいいなと思ってます!」というようなことを書き、その後で、いやまて、それは初のひとり海外旅行でさらに別の目的地に行くとかハードル高すぎだろう!と思い、「やっぱり今回は時間がないのでやめておきますね。もし時間があったらデンマークまで来てもらえたら嬉しいです♫」と気軽に書きました。その時は本当に気軽な気持ちで。

そして後からふと思い返した時に、「もしこれで、彼が北ドイツからわざわざデンマークまで来てくれたら、私に気があるかもしれないな…」と思いました。その時の私は、なんか気になる、向こうも私を気にしてるみたい、でも微妙…な時だったので、「まぁ、来るわけないな」と思って、デンマークの話を彼にしたこと自体を忘れていました。

それから仕事の休みの調整だ、旅行の準備だと追われて忙しくして、まもなく出発が近づいたころにまた1通メールが。「本当にデンマークに来ますか?いつ到着しますか?」と聞かれ、内心、あれ、来てくれるのかな?と思いましたが、まぁ、半々くらいかなぁという気持ちで、「いついつに、コペンハーゲンの空港に着きますよ!来れたら来てね!」とこれもまた気軽に。そしたら出発前日に「いきます!」との返事が。え…?

とにかく出発が迫っていたので、飛行機に乗り、飛行機の中でも彼が本当に来るのかどうか、ていうか来たとして無事に会えるのか?どうなるのかよくわからないまま、空の上を飛んでいました。

そして、コペンハーゲンの空港に降り立ち、初の1人海外でガクガクぶるぶるで声もかすれて出なくなるなか、荷物を受け取ってなんとか出口を出たところに…

いたのです、彼が。

人混みにまぎれて

赤いバラを一本、手に持って、

こちらにブンブンと手を振っている。

😳

いたー😳😳😳

初のひとり海外で極度の緊張状態にあった私は彼の姿を見つけた瞬間に泣きそうになりました。わー、こんな見知らぬ土地に知ってる人がいるー🥹

 

空港からホテルまでは電車に乗らなければならなかったのですが、彼が一緒にいる頼もしさと言ったら。彼は事前に私の取ったホテルの名前も聞いて来ていて、同じホテルの別部屋に一泊するとのこと。そして月曜日は仕事があるので昼には帰るとのこと。空港からホテルまで一緒に行けるの、ありがたい…今思うと、空港からホテルまで完全にひとりだったら、私辿り着いていたかな?と疑問になるほど、その時の私は緊張してました。(後から聞いた話では、このスケジュールはかなり強硬突破で、直前の予約だったので飛行機もかなり高かったそう。)

 

それから私たちはまた微妙な距離感を保ちながら、一緒にコペンハーゲンの町を1日観光し、夜は街を散策することにしたのですが、ホテルから街に向かって歩いている時に小さな花火が上がりました。多分それはチボリ公園で上げられてた花火だったのですが、短期間の間に彼と2回も花火を見るなんて、すごく不思議な気分でした。そして夜はレストランで食事をしました。朝起きたらまた半日観光し、彼は仕事のために昼過ぎに帰って行ったのでした。

帰った後も、私が心細いだろうと思ったのか、ホテルに毎晩北ドイツからお電話をくれました。私は彼にもらった赤い一本のバラを、萎れないように、ホテルにあったカップにさして水切りして、眺めてました。

「ドイツ人の男性は、平気で女性にバラをあげるのかな?」「レディーファーストの国だからな?」と

人生で初めて人からもらった真紅の薔薇に心を奪われていました。

しかし、その後の1人での大冒険の緊張感の方が高まり、彼への気持ちは来てくれた、そしてお電話くれる安心感の方が強くなり、自分の気持ちに確信は持てないでいました。

でもコペンハーゲンでもらった1本の薔薇によって、私の心が動き始めたようでした。

そんなこんなで、コペンハーゲンでの1週間ほどの大冒険の旅がおわり、帰途につきました。この旅については、また別途、まとめてみようと思います。